平家物語を訪ねて

 

-- 北国街道 木の本〜今庄 --

2013年 6月 9日


燧ヶ城手前8km

  治承5年(1181年)閏2月清盛が熱死(あっちじ)にした後、平家は3月に尾張洲胯(すまた)で源行家(義仲の叔父)を破り退却させた。しかしその勢いは続かず翌年には横田川で越後国守城四郎長茂の軍が義仲に敗れる。西国各所より兵を集め、寿永2年(1183年)4月17日辰の一点、木曽義仲追討の為10万余騎の大軍を北国へ差し向ける。大将軍は、治承4年9月清盛の命を受け東国へ頼朝討伐に総大将として下向し、富士川に於いて水鳥の羽音に驚き戦わずして逃げ戻った維盛である。と言っても維盛が臆病と言うことではありません。
  ところで清盛は何故22歳の若い維盛を大将にしたのでしょうか。重盛亡き後小松家は清盛からも冷遇されたのでしょうか。逆に清盛は重用したつもりでしょうか。清盛の末の弟忠度を副将軍にしているのは後者の意味合いが強いのかもしれません。知盛(維盛からは8つ年上の叔父)に任す選択肢はなかったのだろうか。年嵩から言って宗盛に棟梁を引き継がせたのは仕方がないことだと思いますが、子より孫の方が数が多いから情が淡くなると言うのが在ったのでしょうか。どちらにしても若い維盛には苦難の道でした。余りに重い任です。敗走してきた時の清盛の怒りは凄まじいものでしたが、さすがに責任問題はうやむやに済みます。

  さて北陸追討軍は琵琶湖西岸の行軍路周辺の家々から軍資兵糧を略奪同然に徴収しながら北上する。その為民は山中に離散し居なくなったと平家物語は云う。途中、歌人で琵琶の名手でもある経正(清盛の弟 経盛の嫡男)らは竹生島を詣でたりしながら北国街道を越前に入り、最初の戦闘地となる要衝燧ヶ城に至る。

  義仲は未だ信濃に居て、燧ヶ城には、平泉寺長吏・斎明威儀師(さいめいいぎし)、富樫入道仏誓、等々が立てこもっていた。城のある山裾は能美川(日野川)と新道川(鹿蒜(かえる)川)が流れている。その下流に大石や木を組み上げて流れを堰き止めて湖とし守りを固めていたので、平家軍は責めあぐねていた。


燧ヶ城案内板

  斎明威儀師は平家に縁深かった故、夜半手紙を入れた蟇目(ひきめ=中に文等を入れるようにした矢じり。形ががまがえるの目に似ているという)を平家の陣へ放った。その文には、深い湖のように見えてはいるが人工の湖であるので、川下に積み上げた柵を引き壊してしまえば忽ちに水は引き馬でも渡れるようになる、と書いてあった。喜んだ平家軍はすぐさま柵を取り除き水の引いた川を渡り責め上ると、多勢に無勢で忽ち城を攻め落とした。幸先のよい華々しい快進撃であった。

  斎明威儀師はその後、倶利伽羅峠で捕縛され首を刎ねられる。富樫仏誓(ぶっせい)なる武将は、能の「安宅関」に登場する関所の役人富樫何某、歌舞伎十八番「勧進帳」では富樫左衛門(と中途半端な名が明かされてるが)とはどのようなつながりだろうか。

  そこで今回は平家の侍が行軍した北国街道を辿って見ようと北陸自動車道 木之本インターを出て国道365号線を燧ヶ城のあった今庄まで走ってきました。8号線から分かれると交通量はぐんと減ります。余呉川沿いには初夏の花が次々に目に入りその度毎にストップして写真撮影です。

  まずはウツギ。そこら中に咲き誇ってます。「卯の花の におう垣根に、ほととぎす 早も来啼きて、忍音もらす 夏は来ぬ」--- 鳥の声も聞こえましたが、ホトトギスだったかどうか? タニウツギもあちこちで目に付きます。ヤブデマリ、ノイバラ、キリ、コアジサイその他名前のわからない木いろいろ。その中でも一番の収穫はササユリを見ることが出来たことです。希少な種ですのでGPS情報は出せませんからここに写真をつけます。清楚な佇まいをご覧ください。

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  花の写真を撮るのに時間を潰してしまい、予定では平泉寺にも行くつもりでしたが、全く時間が無くなりました。次の機会に回します。

  燧ヶ城のハイキングコース周辺はカタクリの群生地だそうで季節が違ったのは残念でした。今庄の町は宿場町として江戸時代には参勤交代などで栄えたようで、古い町並みが残っています。造り酒屋も4軒あるそうです。事前に調べておいて珍しいお酒を仕入れて来れば良かった。またそばの産地でもあるそうで、町の外れでは丁度そば道場のイベントをやってたみたいです。だからかどうか、駅近くのそば屋さんには客もなく、店内照明も消えてました。駅前にはタクシー営業所があります。また今庄365スキー場入り口には温泉の湯の自動販売用のスタンドがありました。初めて見ました。

  観音堂下にあった芭蕉の句
    義仲の 寝覚めの山か 月かなし
「おくのほそ道」の終盤山中温泉で曾良と別れた芭蕉は、福井から案内役を買って出た等栽を伴って中秋(旧暦8月15日)の名月を敦賀で愛でようと出立する。その道中の歌枕の全てで月を盛り込んで詠んだみちゆき句文の中の一句であるが「月かなし」はどうも解せない。義仲はそもそも燧が城には入城していない。芭蕉も一人ではなく思いがけなく等栽が同道してくれているのだから、「悲・哀」しくはないだろう。単に、興がある、すばらしいというだけの意か。それとも義仲の最後を無理やり月と重ねてここで詠んだのか? 芭蕉は何故か義仲への思い入れが強いようです。
  出典は名古屋の弟子山本荷兮(かけい)が編んだ「ひるねの種」や、蕉門大垣藩士宮崎荊口(けいこう)の一族らになる「荊口句帖」で「燧山」「燧ヶ城」の前書で収録されている。倶利伽羅峠にはこの句の碑があるそうですがゆかりはここ燧ヶ城です。淋しいことにここにあるのは句碑と呼べるようなものではなく簡便なパネルスタンドの書付でした。
  要するにあまりよくない句だから、おくのほそ道にも収録しなかったというのが実態なのか。

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